神の悲しみ
イザヤ 5:1〜6
わたし
1節のわたし=イザヤ
わたしの愛する者=神
3節以降のわたし=神
大変な労苦
よく耕して
石を除き
良いぶどうを植え
見張りの塔を立て
酒ぶねを掘り
実ったのは酸っぱいぶどうであった
なぜ酸っぱいぶどうが実ったか
ぶどうの木のせい?
土壌のせい?
天候のせい?
管理人のせい?
神さまは私たちが良い実をつけることを期待されている。
単に期待されているだけでなく、手塩にかけて育てて下さる。
よく耕して、石を除き、良いぶどうを植え、見張りの塔を立てられるのである。
時には痛い目に遭うこともあるが、神さまがこの硬い心をよくよく耕して下さる。
成長を阻む石ころが散在しているのを御覧になって、一つずつ石ころを取り除いてくださる。
敵が来て心の畑を荒らさないよう見張り、寝ずの番をしてくださる。
「何かしなかったことがまだあるか」と言われるほど、徹底的に関わって下さっておられるのである。
それにも関わらず、酸っぱい実をつけるとしたら、それはなぜか?
これほど神が関わってくださっているという恵みに感謝せず、
あたかも自分一人で生きているような「野生種の野ぶどう」のようになっているからではないか。
「神さま、その枝は切らないで」と神さまの計画に抗っているからではないか。
「神さまは何もして下さらない」のではなく、
神さまがどれほど関わっていて下さっているかということを、私たちが何も知らないだけなのである。
これほどまでに手をかけて下さる園丁がいるだろうかと思うほどに手をかけてくださる。
さて、収穫の秋である。神さまが私に期待されていた御霊の実はこのようなものだったのだろうか。
いやもしかしたら、良かれと思ってやっていることが、実に悪臭を放つようなことであるのかも知れないのだ。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。」
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